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【韓国】『日本に伝えた学問・技術』〜韓国国立晋州博物館(朝日新聞)[12/21]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1292900316/

1 名前:ちょーはにはにちゃんwφ ★[] 投稿日:2010/12/21(火) 11:58:36 ID:???
(写真)
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▲ 余大男と父の往復書簡をみる人たち=韓国晋州市の国立晋州博物館


韓国晋州(チン・ジュ)市の国立晋州博物館の展示室。流麗な漢文でつづられた2巻の巻物が、来館者の目を引いていた。

熊本城主加藤清正の菩提(ぼ・だい)寺、熊本市の本妙寺の第3代住職日遥上人となった余大男(ヨ・デ・ナム)と、朝鮮慶尚道河東(ハ・ドン)に住む父親の余壽禧(ヨ・ス・ヒ)との往復書簡だ。余大男は、文禄の役の時に清正軍に捕まり、日本に連れてこられて僧侶となった。日本を訪れた朝鮮官吏や、帰国した友人を通じて27年後に消息がわかった。

まず、余壽禧の1620年5月7日付の書簡がいう。

「元気でいるという知らせを聞いて、うれしくて小躍りしたが、恨めしく思うのは、お前が、父母の生み育てた恩恵を忘れて異国で楽に暮らし、長いこと帰ってこないことだ。日本で暮らすことに自ら満足して帰ってこないのか。僧侶になって海外で楽に暮らしているために帰ってこないのか。私の年はいまや58歳、お母さんは60歳だ。お前ももう40歳。帰ってきて老父母が生存している日を見るなら、孝行であり、幸いなことではないのか」

喜びの中にもつい詰問調になる文面に、父親の真情がのぞく。余大男の返書は同年10月3日付。

「私は、この手紙を伝える人についていって父母のもとに駆けつけて礼をしたい気持ちでいっぱいです。そして、長い間、胸に抱いてきたことを吐露できれば、その日の夕方に死んでも恨むところはないでしょう。伏して申し上げます。父母よ、いまから数年間、心穏やかに待って下さい。私の考えでは、お送り下さった手紙を持って、この国の将軍と地域の領主に申し上げる考えです。誠意を持って2、3年間、お願いしようと思います。彼らもみな人間です。心を動かすことがないとはいえないでしょう」

その後、余大男は帰国の夢を果たすことなく死去した。

隣りには、儒学者姜檗淵ン・ハン)が、日本の近世儒学の開祖とされる藤原惺窩(ふじ・わら・せい・か)と交わした往復書簡集などが並ぶ。姜櫃老確閥ゝ襪稜ぬ鈎罅日本軍にとらわれて愛媛県大洲(おお・ず)に連行。京都伏見に移送後、惺窩と出会い、朱子学を伝えた。姜櫃竜国後、惺窩の下には多くの門人が集まり、日本社会に儒学思想を根付かせていった。

このほか、捕虜の多くは朝鮮の民衆だった。奴隷として売られた人も多い。

韓国慶尚南道の海岸沿いには、日本武将が築いた日本式の城、倭城(ウェ・ソン)が残っている。ソウル在住の町田貢・元駐韓公使(75)は釜山総領事時代に、清正が築いた西生浦(ソ・セン・ポ)城など29カ所を踏査した。「本丸跡に足を踏み入れると、いまにも鎧(よろい)に身を固めた日本の武将が現れてくるような緊張感を感じた。韓国では秀吉侵攻の傷痕が生々しく残っている」という。

今回の展示では、朝鮮人捕虜の苦難や望郷の思いだけではなく、彼らが日本にもたらした学問や技術などの影響にも目を向けた。そこに今後の日韓関係を切り開いていく新しい芽がありそうだ。

交流展を担当した国立晋州博物館の張成旭(チャン・ソン・ウク)・学芸研究士(35)=現、国立中央博物館=は「捕虜になった人たちが日本でどのように生き、何を成し遂げたのかを見せようとした。戦争をきっかけに日本には多くの変化があった。そうした変化に光を当てた」と語った。

■朝鮮人捕虜■
朝鮮人捕虜 文禄・慶長の役の捕虜数は、日韓の研究者によって2万〜3万人から約40万人まで幅がある。秀吉軍は当初、短期間に朝鮮全域を掌握して軍需物資を調達、明に進撃する予定だった。ところが、朝鮮各地での義兵の決起や水軍の活躍、明の援軍などによって挫折。慶長の役の撤兵の際に多くの捕虜が発生したという。

ソース:朝日新聞(佐賀)
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001012200006

ウルトラマン バルタン星人 どう見てもクソスレです本当にありがとうございました

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【日韓】「靖国神社が朝鮮時代の甲冑を所蔵」〜博物館で展示[12/03]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1291349185/

1 名前:ちょーはにはにちゃんwφ ★[] 投稿日:2010/12/03(金) 13:06:25 ID:???
日本の靖国神社の戦史博物館「遊就館」に、韓国の朝鮮時代の将軍が使用した甲冑(かっちゅう)が保管されていることが3日に明らかになった。同館は8日まで開催する特別展「神風〜そのふきゆくかなたへ〜」で、これらを展示している。

かぶとには額部分に軍の最高統帥権者であることを示す「元帥」との文字が刻まれ、上部に金色の竜と鳳凰をかたどった彫刻が取り付けられている。よろいの仕立てなどから、18〜19世紀に作られたものとみられる。

(写真)
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▲ 展示されている朝鮮時代の甲冑

遊就館側は、1884年の甲申政変(朝鮮で起こったクーデター)で朝鮮の民衆に殺された日本の軍人・磯林真三の名義で、1885年に神社に寄贈されたと説明している。

朝鮮半島から日本に渡った文化財を追跡している慧門(ヘムン)和尚は、保管状態や製造年代などを考慮すると、韓国でも見つけることは難しい貴重な文化財だと話している。

一方、靖国神社は「蒙古襲来(13世紀の元と高麗軍による攻撃)と国難に立ち向かった護国の戦士たち」をテーマに遺物を展示し、当時の上皇が書いたという「敵国降伏」の額のすぐ横に、元軍の攻撃とは関係のない朝鮮時代の甲冑を展示した。

(写真)
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▲ かぶとの額部分には軍の最高統帥権者であることを示す「元帥」という文字が刻まれている

これに対し慧門和尚は、「李舜臣(イ・スンシン)将軍が使用した物と同じ形の甲冑を、よりによって『敵国降伏』という文字の隣に展示した意図は釈然としない」とし、抗議の書簡を神社側に送った。李舜臣は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、水軍を率いて日本軍と戦った朝鮮時代の英雄。

ソース:東京=聯合ニュース
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2010/12/03/
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お前さぁ頭おかしいだろ

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【韓国】晋州で国際交流展=「壬辰倭乱 朝鮮人捕虜の記憶」の開幕式[11/30]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1291079477/

1 名前:ちょーはにはにちゃんwφ ★[] 投稿日:2010/11/30(火) 10:11:17 ID:???
韓国晋州市の国立晋州博物館で開かれる国際交流展「壬辰倭乱(イム・ジン・ウェ・ラン)(文禄の役) 朝鮮人捕虜の記憶」の開幕式が29日あり、有田町から「有田焼の祖」とされる李参平の子孫、14代金ケ江三兵衛さん(49)らが出席した。金ケ江さんはレセプションで「初代李参平のお陰でいまも有田焼が続いている。初代がどんな思い、どんな技術でつくったのかを勉強しながら、初代の焼き物に近づきたいと思っている」とあいさつした。

(写真)
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▲ レセプションであいさつする14代金ケ江三兵衛さん

交流展は、文禄・慶長の役を専門とする晋州博物館が、学術交流協定を結んでいる県立名護屋城博物館(唐津市)の協力で開催。佐賀藩主に仕え、能筆家として知られた洪浩然(こう・こう・ぜん)の「忍」「扁舟意不忘(へん・しゅう・のい・わすれず)」の書や筆、画像など約110点を展示する。

(写真)
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▲ 展示された金ケ江家文書と14代金ケ江三兵衛さんらの作品。後方は、李参平像の写真=いずれも韓国晋州市の国立晋州博物館、田中写す

有田焼関係は、「技術の伝播(でん・ぱ)と磁器の生産」の表題で紹介。金ケ江家に代々伝わる、有田焼の由来を示す「金ケ江家文書」4点3巻のほか、14代金ケ江三兵衛さんと父親の13代の作品5点を展示。さらに、有田町内で出土した陶片や窯道具、染付(そめ・つけ)や色絵の大皿や大つぼも陳列され、有田焼の発展ぶりが一目でわかるようになっている。

30日から一般公開が始まり、来年2月2日まで開かれる。

ソース:朝日新聞(佐賀)
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001011300003

赤ずきんチャチャ どうしよう 馬鹿がいるわ

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【韓国】日本軍、「朝鮮人の人肉も食べた」[10/06]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1286303508/

1 名前:ちょーはにはにちゃんwφ ★[] 投稿日:2010/10/06(水) 03:31:48 ID:???
(写真)
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<アンカーコメント>
第二次世界大戦当時、日本軍が徴用した朝鮮人らの人肉を食べたという、衝撃的な事実が初めて確認されました。

米軍の攻撃で補給が途切れて孤立した日本軍は、朝鮮人らが抵抗すると大規模虐殺まで行った事が明らかになりました。

カン・ジョンギュ記者です。

<レポート>
1945年2月、南太平洋マーシャル諸島のミリ環礁。

当時、飛行場など軍事施設を作るために朝鮮人1,000余人が強制徴用されました。

米軍の攻撃で補給が途切れた状況で、ある日日本軍は鯨肉と言いながら食料を配給しました。

しかし蓋を開けると、実は毎日一人、二人と消えた朝鮮人らの人肉。

近く無人島では、肉が剔られて残酷に殺害された朝鮮人らの死体が発見されました。

「普通に生きていた人を殺害して食べたし、鯨肉とまんまと騙されて同族の人肉を食べる事さえした」

<録音=ウィ・ヒョンチュン(生存者の妻)>
「食べる物が無くて草も食べて、ネズミもたまに現れたらネズミを捕まえ、大量の水で煮て数日食べて・・・」

驚愕に耐えられない朝鮮人らは、日本軍7人を殺害した後米軍に投降しようとしたが、この件をあらかじめ把握した日本軍は機関銃を持って虐殺を行いました。

このように命を失った人は100人余り、何とか15人だけが生き残りました。

対日抗争期強制動員委員会は去る2006年から、当時の生存者らの証言などの資料を基に調査を行い、このような事実を確認しました。

<インタビュー=オ・ビョンジュ(対日抗争調査支援委員長)>
「生存した証人らの証言を基とする関連書類の調査と、現地調査も行ってこのような真相を明らかにしたのです」

日本軍の残忍さと戦争のストレスが重って醸し出された蛮行で、南太平洋の群島で似ている事例が更にある事が推測されます。

今度の調査を通じて日本軍の蛮行の真相は明かされたが、犠牲になった朝鮮人らの遺骸は相変らず行方は明らかではありません。

YTNのカン・ジョンギュでした。

ソース:YTN(韓国語)
http://www.ytn.co.kr/_ln/0103_201010052130032669
http://www.ytn.co.kr/_comm/pop_mov.php?s_mcd=0103&s_hcd=&key=201010052130032669
▲ 動画あります

は? 何言ってんの?

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【韓国】「米軍→国軍→北送沮止隊→日本の監獄」〜6.25が作った数奇な人生[06/22]
http://live28.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1277174133/

1 名前:ちょーはにはにちゃんwφ ★[] 投稿日:2010/06/22(火) 11:35:33 ID:???
■『戦争ディアスポラ』〜在日学徒義勇軍

(写真)
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戦争はどのように記憶されるのか? 敵軍と友軍の二分法を壊して境界と辺境を見れば新しい戦争が見える。これまで朝鮮戦争は国際関係や社会理論の枠組みの中で様々に解釈されたが、本来辺境で苦痛を受けた『人々』の話は注目される事が無かった。CBSは朝鮮戦争60周年を迎え、イデオロギー論争から疎外された『人々』に焦点を合わせて朝鮮戦争を再認識して見る。理念の境界、戦争の辺境で注目される事が無かった民衆たちの生の証言を通じて戦争と平和の意味を振り返る(編集者注)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

戦争は必然的に難民を生む。

太平洋戦争から朝鮮戦争まで、朝鮮半島の周辺では砲弾と飢えを避けて国を転々とする戦争の流れ者、いわゆる『ディアスポラ』が生まれた。

どこか1ヶ所に定着する事ができず、方々に居所を移動した戦争ディアスポラたちは最小限の人権の保障も受ける事が出来ないまま、追い回されるように生活した。

在日朝鮮籍、在中朝鮮族、サハリン同胞らは未だに祖国の辺方をぐるぐると回っている。

その中でも日本から渡って来て朝鮮戦争に参戦した『在日学徒義勇軍』の人生はディアスポラの典型を見せてくれる。

日帝時代に日本に渡った親に付いてそこで幼年期を過ごした若者達は、朝鮮戦争が勃発すると軍人として動員されて両親の国に戻る事となる。これらがまさに『在日学徒義勇軍』だ。

赤ん坊の頃に親と一緒に日本の大阪に渡ったチェ・ソンギュさん(81歳)は、日本で幼年時代を過ごしたせいで未だに韓国語よりも日本語の方が気楽だと話した。

(写真)
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「日本の人に悲しみをたくさん受けた。いくら賢くても倭人たちがチョーセン人と言いながら人間扱いしない。その頃に病気に罹った子、膿疱した子は私の側にに座らした。やむを得ず過ごした」

植民地国の差別を受けながら育ったチェさんは太平洋戦争が勃発すると、深刻なな強制徴用を避けて1940年に馬山(マサン)に入って数年を過ごした。しかし家族たちを置いて一人だけで故国に帰って来たという考えで気持ちは楽ではなかった。

光復(解放)して以降に家族たちがいる日本に帰ったが、広島の爆撃以降在日朝鮮人に対する差別は更に深刻になった。

「両親が日本に居るから帰るしかない。そうしているうちに6.25戦争が始まって米軍部隊に志願入隊して再び釜山(プサン)に行った。私は戦争はすぐに終わると言ったがこんなに惨めな事とは思わなかった」

米軍部隊に所属して国軍に編入された彼は、江原道(カンウォンド)の最前線で残酷な戦争を体験した。

人民軍に捕虜として捕まって九死に一生で抜け出したチェさんは、「死骸の隙間から生き延びたのが奇跡」と言いながら地獄のような戦争を回想した。

ソース:NAVER/CBS社会部=ノーカットニュース(韓国語)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=079&aid=0002162960

>>2以降につづく

2 名前:ちょーはにはにちゃんwφ ★[] 投稿日:2010/06/22(火) 11:35:51 ID:???
>>1のつづき

このように歴史の渦に巻き込まれ、生まれてから韓国と日本を数回行き来しなければならなかったチェ・ソンギュさんは、戦争が終わって数年経った1959年にまた別の任務を帯びて日本に渡る。

それは在日朝鮮人たちの北送を阻むための秘密スパイ、『北送沮止隊』として動員されたのだ。

当時、北朝鮮に移ろうとする在日朝鮮人たちが増えると李承晩(イ・スンマン)政権はこれを沮止するため、59年に在日学徒義勇軍出身41人と警察幹部試験合格者24人を日本に緊急派遣する。

しかし北送沮止隊は日本に移って遭難事故に遭い、密かに派遣されたその後も生計費の支援受けることができず、餓えて現地の警察に逮捕されて服役するなど、各種の苦難に遭わなければならなかった。

(写真)
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軍人として帰って来てスパイとして日本に再び渡るまで、大韓民国と日本の両方で少数者として扱われた彼らには選択権が無かった。

何より国家は戦争ディアスポラたちに冷情だった。在日学徒義勇軍や北送沮止隊の存在がメディアを通じて世間に知られたのもわずか数年前だ。

朝鮮戦争に動員された在日学徒義勇軍は計642人。なかでも135人が戦争期間中に命を失い、戦争が終わった後も日本に帰る事が出来なかった242人のうち、現在の生存者は38人に過ぎない。

だが何人も残っていない在日学徒義勇軍の待遇は相変らず劣悪で、北送沮止隊の補償訴訟もいつも敗訴となっている。

キム・クィオク漢城(ハンソン)大学教授は、「在日学徒義勇軍は冷戦時代に見代わりになった戦争ディアスポラの人生を極端に現している」とし、「これらの人生を再照明して見ることは、戦争を新しく見つめるきっかけになる」と話した。

(おわり)

死ねばいいのにね

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